2015年11月11日

物故者追悼ミサがありました

本日は午前中に、大学関係者の、
物故者追悼ミサが行われました。


本日いらしていただいた
神父様のお言葉によると、
帰天された方々を思うことは、
私たちがこの場に集ったこと、
また、その方々や周囲の人達との、
つながりを確かめる機会になる、
ということです。



ここからは私の感想です。

私たちは、普段、自分の意思で行動している、
と思っています。
しかし、人との出会いやつながりは、
自分の思いどおりになるわけではありません。

また、思い通りにならないからこそ、
嬉しい意外な出会いがあります。
意外な出会いは、自分を新しい世界に誘い、
成長させてくれます。

神父様の言葉を、
自分自身が変わることで、
今の自分ある場所より、生きる世界を広げる。
そういう人とのつながりを、
ありがたく思うということと解しました。



一方、人とのつながりを大切にしているつもりで、
人との関係を損なう場合もあります。
あいつおせっかいだな、と言われる場合です。

それは、実は、
相手との関係を重んじているのではなく、
自分のしたいことを優先しているからだろう、
と思います。

自分の良いと思っていることが、
相手にとって、また、より多くの人にとって、
良いこととはかぎりません。

自分を信じている人は、
自分の良いことが、世界の良いことと、
思う場合があるようです。

そういう思いこみは、
人とのつながりを重んじているようで、
実際は、自分を相手に押しつけていることになるでしょう。

そんなときに、神父様の言葉にあったように、
一時、自分の立場を離れて、
多くの人とのつながりに目を向けてみると、
おせっかいだったかな、と思い直せるような気がします。

神様を思うということは、
圧倒的に自分と異なる存在を思うことで、
自分の至らなさに気づく、ということではないでしょうか。



私自身が、普段、
それほど人とのつながりを、人の思いを、
優先できているかというと、
なかなか難しいことです。

だからこそ、ミサを機会に、
時にはそんなことを思ってみるのも、
良いのではないかと振り返りました。



報告:長沼光彦

  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      国際日本文化学科(人間文化学科)  at 19:36Comments(0)日記カトリック教育