2014年12月27日
悲劇の美男子 平維盛
人間文化学科の「日本語と古典ゼミ」に所属する4年次生 榎本ちあきさん(和歌山県立那賀高校出身)は、日本の歴史に深い造詣をもっています。とりわけ、新撰組隊士と平家の武将については、歩く人名辞典と言っても過言でなく、一人ひとりの詳細な事績について、すべて頭に入っていて空で言うことができます。
そんな彼女ですから、卒業論文も、「平重衡人物考」と題した本格的な研究を、難なく楽しく、早々と書き上げました。自分が大好きなことについて書くわけですから、楽しくてしかたがなかったばかりか、もう1本、違うテーマで書いてみようかと思ったほど有意義な時間を過ごせたそうです。
彼女のそんな思いを無にせず、そのエネルギーを積極的に活かしてもらうため、平家の武将をテーマにエッセイを書いてもらうことにしました。
何回シリーズになるかは分かりませんが、しばらく榎本さんの平家武将論におつきあい下さい。
以下、その作品を掲載します。 【指導教員 堀勝博】

榎本ちあき 「悲劇の美男子 平維盛」
日本の女性の憧れ、光源氏。その再来と呼ばれた人物をご存じだろうか。この長い日本の歴史の中で人々から絵にも描けない美しさと大絶賛された人物は平維盛くらいであろう。
彼は、平清盛の長男・重盛の息子である。生まれた時から平家の嫡流としての運命を背負っていた。
加えて維盛は相当なイケメンだったのである。1176年、後白河法皇50歳の祝賀で、烏帽子に桜梅の枝を挿して青海波を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれるほどである。
その一方で、嫡孫でありながら彼の立場は危ういものでもあった。父・重盛は清盛の長男とはいえ正室・時子の息子ではなく、維盛の妻は鹿ケ谷事件の首謀者・藤原成親の娘であったため一門からの風当たりはきつかったと考えられる。
そんな中、治承・寿永の乱が勃発。維盛は総大将となり富士川の戦いに出陣。思うように兵が集まらず、凶作で糧食の調達もままならなかったが甲斐源氏討伐に向かった。撤退の命が出た夜、富士沼の数万羽の水鳥が飛び立ち、その羽音を夜襲と勘違いした平氏軍は総崩れとなって潰走する。
1183年、倶利伽羅峠の戦いでも大将軍として出陣するが木曽義仲の戦略に嵌り大敗北。
そして都落ちの際、妻子との別れを惜しみ、遅れた維盛や弟たちは裏切りを疑われるほど重盛一族の立場は危うくなる。そして維盛は一ノ谷の戦い前後、陣中から逃亡する。のちに高野山に入って出家し、27歳で那智の沖で入水した。
このことから、維盛は戦に弱く、一門を見捨て逃亡したダメな嫡流だと評価されることが多い。確かに維盛は、病床にあった重盛に大事な黒塗りの太刀を託されただけでショックを受け、出仕もできず寝込んでしまうほど繊細であった。
しかし、維盛は常に父・重盛につき従い、それにより平家の嫡男としての素養、覚悟を身につけていったと考える。それゆえ、富士川では麓で惨敗しながらも維盛は退く気はなかった。伊藤忠清が撤退を主張したため撤退を余儀なくされたのである。富士川での汚名返上のため、出陣した倶利伽羅峠の戦いでは敗北してしまった。
都落ちで一層危うくなった重盛一族の立場、自分の敗北により力を失っていく平家一門に維盛は自らの無力さを悟ったのではないだろうか。一門を見捨てたのではなく、清盛の息子(維盛の叔父)である宗盛・知盛が中心となり平家再興を目指す一門には宗盛らの兄を父に持つ微妙な立場の嫡流で戦に弱い自分の存在は邪魔なものだと思ってしまったのであろう。
栄華を極めた平家一門。その嫡流として生まれた平維盛。その美貌や、繊細さは平安の貴族社会にはふさわしかったが、武家社会へと移行する荒れた時代には合わなかっただけなのである。平維盛は決して平家一門を見捨てた嫡流ではなく、武家にも貴族と対等に渡り合えるくらい雅で美しい人物がいたという平家一門の繁栄を象徴する人物なのである。