2015年01月09日

学生エッセイ 「平家武将列伝」その2

 榎本ちあき   「平家一の猛将 平教経」
        (人間文化学科4年次生、日本語と古典文化ゼミ所属  和歌山県立那賀高校出身)


  源氏武将といえば源義経がとても有名である。一方、平家武将は武士であるにも関わらず、武士の本分を忘れ、軟弱な貴族と化していった。その平家一門にあって、源義経と真っ向から対決した人物が平教経である。
 
   

  教経は平清盛の弟・教盛の次男である。天下一の強弓の使い手と言われ、追い詰められていく平家を支え、ほとんどの源平合戦に出陣し、源氏を苦しめた。

  都落ち後の水島の戦いでは、味方の船を綱で繋ぎ、板を敷いた陣を築き、馬を同乗させるという戦法を命じ、平家を勝利に導くことになる。この勝利を機に平家は勢力を挽回し、教経は下津井・福良・沼田・西宮・吹井・今木と全ての戦(六箇度合戦)で勝利を収める。福良までは父と兄との共同作戦であったがこれ以降は彼一人の功績である。力強いだけでなく、その場に応じた作戦を立て、兵を従える統率力を持った教経は人々にとって斜陽の平家を救った英雄だっただろう。彼自身も「教経命ある限りは何度でも、いかに強い敵であっても大将軍を引き受けて打ち破りましょう」と戦に絶対的な自信を持っていた。

  その教経と義経が初めてあいまみえたのが屋島の戦いである。義経は嵐の中に船を出し、奇襲をかけてきた。油断していた平家軍が右往左往する中、鎧直垂を脱ぎ、軽装になった教経は強弓で義経の片腕である佐藤継信を討ち取るなどの功績をあげる。

  壇ノ浦の戦いでは平家一門が入水してゆく中、大太刀と大長刀で奮戦。その後、知盛の「平家滅亡はもう決まったのだから、無益な殺生をするな」という言葉に、義経一人に狙いを絞るのである。俊敏に逃げる義経を追うが、義経に八艘飛びで逃げられてしまう。教経は鎧を脱ぎ捨て丸腰になり、大力な武士二人を両脇に抱え、「貴様ら死出の山の供をせよ」 と海に沈むのであった。教経はその時、二六歳で若い武人だったが、平家の英雄にふさわしい壮絶な最後である。

  義経をあと一歩の所まで追い詰めるなど、猛将ぶりは平家一門の中においてとりわけ目立っている。 そのため平家物語などに見られる教経は、典型的な武人肌の熱血漢として描かれていることが多い。しかし彼は武人として戦う姿勢に厳しい一方で、不器用ながらも深い情を持っていた人物であったと考える。一ノ谷の戦い前、兄・通盛が妻との別れを惜しんでいるところを、「そのような心構えでは戦場で不覚を取りかねない。」と、通盛を窘める(しかし通盛は一ノ谷で討死)場面や、屋島の戦いで奉公人として可愛がっていた菊王丸が討死すると、戦意喪失し、戦場から去ってしまう場面などが印象的である。

  王城一の弓取りと謳われた教経に小柄だった義経が直接切り結めば教経の敵ではなかったであろう。ゆえに壇ノ浦の戦いで、義経は教経から八艘跳びで逃げなければならなかったのである。彼は武士同士の一騎打ちが戦の常識だった時代に、思いがけない場所からの逆落としや嵐の中の奇襲を使って戦わなければならなかった相手だったのである。

  力を失っていく平家の中で武士としての意地を見せた教経。平家再興のために最前線で戦い続け、最後は武人として華々しく散った彼の活躍をもっと多くの人に知ってもらいたいと思う。

平教経をはじめ平家一門が入水した壇ノ浦
平教経をはじめ平家一門が入水した壇ノ浦(山口件下関市)


  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      国際日本文化学科(人間文化学科)  at 00:45Comments(0)学生の作品