2014年11月08日
「土曜公開講座」の本学 宮永 泉 教授による「死の哲学」紹介(2)
昨日の続きとして、宮永 泉 教授の「死の哲学」の10月18日の講話内容を紹介したいと思います。
なお、カトリック教育センターの今後の講座は次の通りです。
11月15日(土)14:00~16:10
「愛と恵み」
Sr.中里郁子(人間文化学部講師)
「オルガン音楽のレパートリー」
久野将健(人間文化学部准教授)
11月22日(土)14:00~16:10
「わたし、だいじょうぶなんだ!から始めてみよう」
Fr.星野正道(白百合女子大学教授・東京教区司祭)
11月29日(土)14:00~16:10
「伊勢神宮と戦後日本」
ジョン・ブリーン(国際日本文化研究センター教授)※日本語で講演
今後の講座について、より詳しくは、以下のページをご参照ください。
「今を生きるために キリスト教の思想・文化にふれる」開催のお知らせ
http://www.notredame.ac.jp/news/detail.php?id=216&category=8
以下の文章は、宮永教授によるものです。
カトリック教育センター主催「土曜公開講座」/宮永 泉 による講話
「死の哲学 XII -超越の図式(3)-」
第二回(2014年10月18日)講話、要旨

モンテーニュ的懐疑論の核心に在るのは次のような「普遍的懐疑(doute universel)」である。「彼(モンテーニュ)はその懐疑自体までをもみずから引きさらってしまう程に全般的な普遍的懐疑の内に総てのものを置く。換言すれば自分が疑っているかを疑い、更にまたこの最後の仮定までをも疑うので、彼の不確かさは休むことも終わることも知らぬ円となって自分自身の上を回転し、総てが不確かであると確言する人々に対しても、総てが不確かなわけではないと確言する人々に対しても同じように反対する。何故ならば、彼は何事も確言したくないからである。彼が自分の支配的形体と呼んでいる、この自己を疑う懐疑とおのれを知らぬ無知との中にこそ彼の所説の本質がある」のであって、その本質を彼は「我何を知るや?(Que sais-je?)」という銘句で辛うじて表現し得た。
即ちモンテーニュは、悪無限的懐疑の内に身を置く「純粋の懐疑論者」(徹底的懐疑論者)であって、彼の主著『エッセー』の全議論はこの普遍的懐疑の原理の上に回転している。「彼はその中で知らず知らずのうちに、人間の間で最も確かなものとして通用しているものをことごとく破壊し去ってしまう」。モンテーニュにとっては、自己の存在も世界の存在も夢幻の如きものであり、神の存在も不可知である。
かくの如きモンテーニュの狂気を孕んだ悪無限的懐疑論は、西谷啓治『宗教とは何か』(創文社)で哲学的に「虚無の立場」と表現されている事態に通じる。また『城』を始めとするF. カフカの文学が指し示す事態にも通じる。それらはいずれも、神が現われる前兆の表現である。
編集:吉田智子
写真:シスター中里郁子
なお、カトリック教育センターの今後の講座は次の通りです。
11月15日(土)14:00~16:10
「愛と恵み」
Sr.中里郁子(人間文化学部講師)
「オルガン音楽のレパートリー」
久野将健(人間文化学部准教授)
11月22日(土)14:00~16:10
「わたし、だいじょうぶなんだ!から始めてみよう」
Fr.星野正道(白百合女子大学教授・東京教区司祭)
11月29日(土)14:00~16:10
「伊勢神宮と戦後日本」
ジョン・ブリーン(国際日本文化研究センター教授)※日本語で講演
今後の講座について、より詳しくは、以下のページをご参照ください。
「今を生きるために キリスト教の思想・文化にふれる」開催のお知らせ
http://www.notredame.ac.jp/news/detail.php?id=216&category=8
以下の文章は、宮永教授によるものです。
カトリック教育センター主催「土曜公開講座」/宮永 泉 による講話
「死の哲学 XII -超越の図式(3)-」
第二回(2014年10月18日)講話、要旨

モンテーニュ的懐疑論の核心に在るのは次のような「普遍的懐疑(doute universel)」である。「彼(モンテーニュ)はその懐疑自体までをもみずから引きさらってしまう程に全般的な普遍的懐疑の内に総てのものを置く。換言すれば自分が疑っているかを疑い、更にまたこの最後の仮定までをも疑うので、彼の不確かさは休むことも終わることも知らぬ円となって自分自身の上を回転し、総てが不確かであると確言する人々に対しても、総てが不確かなわけではないと確言する人々に対しても同じように反対する。何故ならば、彼は何事も確言したくないからである。彼が自分の支配的形体と呼んでいる、この自己を疑う懐疑とおのれを知らぬ無知との中にこそ彼の所説の本質がある」のであって、その本質を彼は「我何を知るや?(Que sais-je?)」という銘句で辛うじて表現し得た。
即ちモンテーニュは、悪無限的懐疑の内に身を置く「純粋の懐疑論者」(徹底的懐疑論者)であって、彼の主著『エッセー』の全議論はこの普遍的懐疑の原理の上に回転している。「彼はその中で知らず知らずのうちに、人間の間で最も確かなものとして通用しているものをことごとく破壊し去ってしまう」。モンテーニュにとっては、自己の存在も世界の存在も夢幻の如きものであり、神の存在も不可知である。
かくの如きモンテーニュの狂気を孕んだ悪無限的懐疑論は、西谷啓治『宗教とは何か』(創文社)で哲学的に「虚無の立場」と表現されている事態に通じる。また『城』を始めとするF. カフカの文学が指し示す事態にも通じる。それらはいずれも、神が現われる前兆の表現である。
編集:吉田智子
写真:シスター中里郁子