2014年07月04日
【公開講座】御粽司川端道喜の歴史と現在(基礎演習6月26日)

人と人の縁とは不思議なものです。フランス語と比較文化・国際関係論を専門とする私が、京和菓子のルーツとも言える川端道喜の第16代代行を務める川端知嘉子さんとお会いしたのは、大学正門前の「カフェ338」です。10年ほど前、最初にお会いした際は、カフェに展示されている画を描いた画家さんという程度の認識でした。日本文化に造詣が浅く、ましてや京都の文化に馴染のない私にとって、川端道喜という名は、まさしく未知の世界でした。
今回の「御粽司川端道喜の歴史と現在」という講演を聞いて、とりわけ印象深く感じたのは、1)時間すなわち歴史の持つ重み、2)物事に常に正面から向かう態度です。初代川端道喜は、室町後期(室町幕府の奉書によると1512年)より、戦国・安土桃山時代に天皇のお住まいであった京都御所に粽・餅を届けた家であり、豊臣秀吉や千利休と同世代の人物なのです。その時代から約500年にわたり粽司として、その家業を途絶えることなく続けてきたと知り、まずは驚くばかりです。更に、室町後期に幕府が疲弊し、朝廷の財政も逼迫する中、食糧事情が大変な状況を慮(おもんばか)って毎朝「御朝物(おあさのもの)」と呼ばれる「餅」を献上するのが習わしとなり、明治天皇が東京に移るまで続いたと言うのですから、分刻みで生活する現代人から見ると気の遠くなるようなお話ですね。

しかも、京都御所には、天皇の食べ物を運ぶために使われた「道喜門」という専用門が健礼門の東横に、今も残っているのです。これは歴史という時間が現在に取り込まれている例とも言えるでしょう。お話によると、今日のイギリス、バッキンガム宮殿の衛兵による交代儀式を見物する観光客のごとく、当時の人々は、川端道喜が「天皇」に朝食を運ぶところを一目見ようと道喜門で待ち構えていたという江戸時代の記事もあるそうです。まさしく、知られざる民衆史の一コマを見る思いではありませんか。

別の視点から、もう一つ、とても感銘を受けた事があります。
日本の首都が京都から東京へと移った時、天皇家や公家とゆかりのあった様々な出入り業者が、遷都と共に東京へと移り、商いを拡大していった店が多くあった中で、川端道喜はその貢献から可能性を与えられていたにもかかわらず、京都に残ったという事実です。知嘉子氏によれば、道喜は当時、京都の町衆の「長(おさ)」を務めていて「京都を離れて東京には移住しにくかったのではないか」ということです。伝統や技術を伝える人々が残ったから、京都の文化は途絶えることなく、今日まで生き残ってきたという知嘉子氏のお話は、説得力があり、考えさせられる事実です。
また、川端家の家訓とも言える「起請文(きしょうもん)」には、正直に商いを行うこと、品を吟味して乱造しないこと、宣伝ではなく品質でお客をよぶということが記されているそうです。これなどは、無限に市場を拡大し、より大きい利益を常に追求しようとする現代の企業文化とは全く異質の経済観・社会観ではないでしょうか。因みに、そのせいもあって、北山通りと下鴨本通の交差点、角に位置する川端道喜のお店を訪れる観光客の中には、あまりにも店構えが「こぢんまり」としているため、「こちらでいいんでしょうか?」と尋ねられることもしばしばということです。何事も外見だけではないという、深いお話だと皆さんも思いませんか。
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