聖ドミニコの霊性について

京都ノートルダム女子大学      国際日本文化学科(人間文化学科)

2015年10月01日 14:55

教会にはキリストに従って生きた多くの人々の中で、聖人とされている人々がいますが、その中で、13世紀に説教者兄弟会という修道会を創立した「聖ドミニコ」をご紹介したいと思います。聖ドミニコは、都市経済が発展し、新しい学問が開花して従来の世界観が変わっていった革命的な時代において、どのような方法でキリストに従う道を歩んだのでしょうか?


聖ドミニコは、1171年にスペインのカレルエガという小さな村で誕生しました。父母はとても信仰の深い人たちでした。ドミニコを身ごもった母は、犬が松明をくわえて世界に向けて走ってゆく夢を見ましたが、犬は忠実のシンボルで、松明は真理のシンボルです。犬が駆け巡りながら羊の牧者の手伝いをするように、聖ドミニコが牧者であるキリストの手足となって、真理のみことばを伝えながら世界を駆け巡る説教者となる、将来の姿を暗示するような夢でした。


写真1:カレルエガ


ドミニコは6,7歳になった時に司祭であった叔父の元で教育を受け始め、14歳になるとパレンシアで高等教育を受けるために旅立ちました。パレンシアでドミニコは当時の社会の現実を目の当たりにします。スペインでは回教徒(サラセン人)との戦争が始まり、飢餓や病気で多くの人々が苦しんでいた時代でした。ドミニコは「人々が飢えで死んでいく時、死んだ皮の上で勉強していることはできない」と言って、貧しい人々に食べ物を与えるために、勉強のために大切にしていた羊皮紙の聖書を売り払いました。


ドミニコはオスマの司教座参事会員としての誓願を宣立した後に司祭に叙階されました。1204年に、ドミニコがディエゴ司教と共にデンマークに旅した時に、南フランスでカタリ派という異端に出会い、衝撃を受けます。カタリ派は霊と物質とを対立させる二元論によって、福音書の神を善い神、旧約聖書の神を悪い神として対立させました。彼らは厳しい禁欲的な生活をして、一見キリストの教えに従った清い生活を送っているように見えましたが、彼らにとってそれは、悪である物質から解放されることが動機であり、物質である体を増やす出産は悪であるため結婚も否定し、体を維持するための食事も悪であるという考え方に基づいているものでした。これは、全てのものを創造して被造物を善いものとして祝福された神を信じるキリスト教信仰とはかけ離れた考え方でした。また、カタリ派にとっては、キリストの体も死も見せかけであるとして、キリストの十字架上での苦しみを無意味なものとしてしまい、キリスト教信仰とは相容れない考えを信じていました。


聖ドミニコは、人々に正しい教えを伝える必要を直観して、説教を目的とした修道会を設立します。当時は、説教は司教だけに許されていましたが、ドミニコの修道会は説教する許可を教会から得ました。聖ドミニコは異端者から殺害される危険に遭いながらも、いつも喜びに満ちた表情で、真理である神のみことばを伝えていました。聖ドミニコとその修道会の兄弟たちは、典礼と祈りの沈黙を大切にしつつ、徒歩で旅しながら神のみことばを伝え、人々が正しい教えに立ち返るように働きました。聖ドミニコは「神と共に語るか、神について語るかしていた」と言われています。托鉢者として貧しい生活を生き、語ることばを生活でも証していました。旅する説教者という聖ドミニコの生き方は、根本的にはキリストの生き方に倣うものでした。キリスト自身、祈りにおいて父である神との親しい交わりの時を大切にし、旅をしながら救いのみことばを人々に告げていたからです。このように、聖ドミニコは神のみことばの説教を通して、説教者であるキリストを模倣するという方法で、キリストの生き方に従った聖人であったといえます。


写真2:聖ドミニコ



報告:シスター中里郁子

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