2016年11月01日

見えてしまう人 萩原朔太郎


今、萩原朔太郎を読んでいます。
日本近代文学特講という授業です。
見えてしまう人 萩原朔太郎


萩原朔太郎の第一詩集、
『月に吠える』(1917)には、
こんな詩が載っています。

    春夜

 浅蜊のやうなもの、
 蛤のやうなもの、
 みぢんこのやうなもの、
 それら生物の身体は砂にうもれ、
 どこからともなく、
 絹いとのやうな手が無数に生え、
 手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
 あはれこの生あたたかい春の夜に、
 そよそよと潮みづながれ、
 生物の上にみづながれ、
 貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
 とほく渚の方を見わたせば、
 ぬれた渚路には、
 腰から下のない病人の列があるいてゐる、
 ふらりふらりと歩いてゐる。
 ああ、それら人間の髪の毛にも、
 春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
 よせくる、よせくる、
 このしろき浪の列はさざなみです。


皆さん、どうでしょう。
春の海を眺めて、こんな風景が見えてくるでしょうか。

きれいな青い色だな、波は白いな、
などと感じたりはするかと思います。

とはいえ、アサリとかハマグリとか、ミジンコとか、
生き物がいるとは思い至らないかもしれません。

もちろん、腰から下のない幽霊のような人は、
見えたりしないでしょう。


どうも、萩原朔太郎は、『月に吠える』で、
常人には見えないものが、見えてしまう感覚を、
書いているようです。


おまけに、アサリとかハマグリに、
毛が生えているというので、
初めて読んだ学生の中には、
ちょっとひいてしまった人もいたようです。

見えてしまう人 萩原朔太郎

とはいえ、この「見えてしまう」感覚は、
創造的な活動には必要なものです。

私たちが、ぼーっとしていると気づかない、
世の中の様々な物事に、
「見えてしまう」人は、気づくわけです。

芸術家と呼ばれる人たちは、
それを、文学や、美術、音楽などの、
形に表現します。

そして、私たちに、世界の感じ方を、
教えてくれます。
(自分とは合わないな、
と感じる場合もあるとは思いますが。)
見えてしまう人 萩原朔太郎


当人は、「見えてしまう」ことが、
必ずしも嬉しいことではなく、
つらかったりもするわけですが。

報告:長沼光彦



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Posted by 京都ノートルダム女子大学      国際日本文化学科(人間文化学科)  at 21:27 │Comments(0)授業紹介日本語日本文化領域

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