2016年10月19日

授業が寒い 意味の受け取り方 


「先生の授業は、寒いなあ」と、
授業中に学生に言われました。

授業がおもしろいと、先日言われてたのが
一気に評価逆転です。



と思いましたら、
長沼の授業では、
冷房が強くて、寒く感じる、
という意味でした。

(それにひっかけて、
長沼の笑い話は、すべっている、と、
諷していたかもしれませんが。)




このように、言葉は、
いろいろな意味に解釈できます。

こういう言葉の特徴を利用した表現、詩について、
考えているのが、私が担当する日本文学特講です。

 汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪が降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる


中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」の冒頭です。

例えば、この詩では、
私は何らかの理由で、汚れてしまって、
悲しい、と言っているのでしょうか。

あるいは、悲しみ自体が、汚れていると、
感じているのでしょうか。



2番目の解釈は、やや強引な気もするかもしれませんが、
小雪降りかかる、というフレーズを合わせてみると、
汚れたものの上を、白い雪が覆っていくような、
イメージが浮かびます。


また、雪は、汚れたという、つらさの上に、
寒さというつらさを、重ねるものと解釈できます。

さらに、先の、
汚れたものに白いものが重なるイメージでいけば、
汚れを覆い隠すという、意味にもとれます。



あるいは、両方の意味を重ね会わせて
いるのかもしれません。

このような解釈の多様性は、
複雑な感情を表現するのに、
適しています。


私たちはときに、嬉しいけれども、
悲しく感じる面もある場合があります。

あるいは、表面的には起こりながら、
内面では泣いている場合もあるでしょう。

そういう一言で表現できない感情を表すときに、
言葉の曖昧さは、かえって役立つ場合があるのです。



報告:長沼光彦

  
タグ :中原中也


Posted by 京都ノートルダム女子大学      国際日本文化学科(人間文化学科)  at 18:08Comments(0)授業紹介日本語日本文化領域