2017年04月16日

日本でもイースター


本日は、イースター(復活祭)です。


日本でも、イースターを、
行おうという企画があります。

テレビのCMで流れているものでは、
ユニバーサルスタジオジャパンの、
ユニバーサル・イースター・セレブレーション、
があります。


ところで、
みなさんは、
イースターをご存知でしょうか。

復活祭の名のとおり、
キリストの復活を祝う日です。

教会でも行事が行われますが
民間では、たまごを探すイベントが、
行われたりします。

イースターエッグといい、
もとは生命の象徴として、
考えられたようです。



日本で、大々的なイベントとなったのは、
近年のことのようです。

ただ、欧米の文学作品などを通じて、
ご存じだった方も多いかと思います。

スヌーピーなど、漫画にもエピソードとして、
登場します。


せっかくですから、
イースターのいわれも知って、
春の訪れを祝うのも、
楽しいかと思います。



報告:長沼光彦


  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 22:44Comments(0)カトリック教育

2017年04月08日

人を尊重すること 入学式感謝のミサ


4月3日の入学式では、
感謝のミサを行いました。

新入生の皆さんにとっては、
大学で行う初めてのミサです。

北村善朗神父をお招きして、
式を行いました。




式では、マタイによる福音7章7~12が、
朗読されました。

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
 求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 
 あなたがたのだれが、
 パンを欲しがる自分の子供に、
 石を与えるだろうか。
 魚を欲しがるのに、
 蛇を与えるだろうか。

 このように、
 あなたがたは悪い者でありながらも、
 自分の子供には良い物を与えることを知っている。
 まして、あなたがたの天の父は、
 求める物に良い物をくださるにちがいない。
 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、
 あなたがたも人にしなさい。
 これこそ律法と預言者である。


これをふまえ、北村神父は、
次のようなお話をされました。


愛するということの、
本当の意味を知ることが大切です。

好き嫌いということは、
本当の愛ではありません。
好き嫌いは感情から発するものです。

本当の愛は、好悪を超えて、
相手を尊重することです。





ここからは、私の考えたことです。

本当の愛を意識しない人は、
その人が本当に必要としないものを、
与えようとすることがあるでしょう。

つまり、相手を尊重しないで、
自分の満足を優先するからです。


とはいえ、
自分の思い込みを修正して、
相手の本当に必要なものを、
与えるのは、
なかなか難しいように思います。

自分の子供は、はじめから、
自分と結びつきがありますが、
他者とは、はじめから、
そういう結びつきがあるわけではありません。

他者は、単なる知り合いではなく、
まさに尊重すべき相手、
自分の子供のように大切できるような相手、
として見直す必要がある、
ということでしょう。

聖書の言葉の中には、
隣人を重んじる言葉が、
多くあります。



報告:長沼光彦


   
タグ :聖書入学式


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 20:53Comments(0)カトリック教育

2017年03月18日

本当に選ぶべきもの 卒業式 聖体賛美と祝福式のことば


卒業式の、聖体賛美と祝福式では、
ルカによる福音(9章22~27節)が朗読されました。



 そのとき、イエスは弟子たちを戒め、
 次のように言われた。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
 律法学者たちから排斥されて殺され、
 三日目に復活することになっている。」
 それから、イエスは皆に言われた。
 「わたしについて来たい者は、
 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、
 わたしに従いなさい。
 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
 わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、
 自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、
 なんの得があろうか。
 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、
 自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、
 その者を恥じる。
 確かに言っておく。
 ここに一緒にいる人々の中には、
 神の国を見るまでには決して死なない者がいる。」

これをふまえ、大塚喜直司教は、
次のような話をされました。

現代は、勝ち負けを決める時代で、
尊重と助け合いの精神が、
見失われることがあります・

しかし、そこで、正しいことを選択していくことが、
必要でしょう。

先のキリストの言葉も、
目先の利害に囚われて、
自分の命、本当の生き方を捨てている者への、
警告ということです。


私たちは、目先にあること、
あるいは、成り行きにまかせて、
理想、信念をないがしろにすることが、
ままあります。

そんなことをしても、幸せになれない、
聖書の言葉は、
そんなことを教えてくれます。


報告:長沼光彦  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 16:59Comments(0)カトリック教育

2016年12月25日

光を待つクリスマス ノートルダムクリスマス2016より

クリスマスをいかがお過ごしでしょうか。

ノートルダムクリスマス2016での、
一場修神父のお話を、ご紹介します。



一場修神父の話は、
クリスマスの本来の意義、
キリスト降誕が何をもたらしたか、
というものです。



今の世の中は、
人を傷つけ合う現実があります。

これは悲しいことですし、
マスコミも、そういう世の中が、
間違っていることを報道します。

にもかかわらず、
傷つけ合う現実がなくならないのは、
なぜでしょう。




一場修神父は、
本来は闇の現実である、
そういう世の中に、
人は慣れてしまうものだ、
とおっしゃいます。

場合によっては、
むしろ、それが心地よくなり、
その現実から出たくなくなるのです。


そういう人々に、
イエスの光が、
闇の現実から抜け出す勇気を、
与えてくれる、というのです。

それが、キリストが、
人間の世に、希望を与えることなのです。



少し、私の解釈を付け加えます。
今の世の中は、基本的に、
競い合い、成功を勝ち取る世の中です。

それ自体は、正しく評価されるなら、
悪いことではないでしょう。

ただし、競争に負けた人にも、
何らかの助けは必要でしょう。
自分が負けたときのことを考えれば、
助けが必要なことは、
じゅうぶんに理解されるはずです。


とはいえ、勝つことにばかり目が向くと、
助けが必要な人を忘れてしまうことがあります。

また、勝つことが目標になると、
意図的に相手を貶めることを、 
してしまう場合があります。

こういう心理状態を、闇の現実、
というのだろうと思います。




その闇から脱するためには、
どうしたら良いでしょう。

今の自分とは異なる価値観、
本来人間が持つべき、
助け合う気持ちを思い出すことが、
必要でしょう。

そういう気持ちを思い出させるものが、
変わらない理想、不変の真理、
神の言葉、ということになるのだと思います。



キリストを信仰すると否とにかかわらず、
闇の現実を脱するためには、
自分の欲や感情とは、
別の価値観が必要でしょう。

そういう価値に目覚めれば、
心に光が差してきたように、
感じるのではないでしょうか。


ノートルダムクリスマスで、
ろうそくの火が、キリストの元から、
会場へと届けられたのも、
キリストの希望の光を表しているのです。


(カトリック校である本学のイルミネーションも、
世のイルミネーションとは、
異なる意味合いを持っていると思います。)


毎度申し上げますが、
私自身は、むしろ、闇の現実に、
囚われるような、凡庸な人間です。

クリスマスという機会や、
信仰の言葉に触発されて、
人間のよりよい生き方を、
思い起こし、書き記すだけです。




報告:長沼光彦
  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)カトリック教育

2016年12月23日

Notre Dame Christmas 2016 の司会・朗読

2016年12月19日(月)、

本年も「Notre Dame Christmas 2016」が開かれました。



このクリスマス行事は、
ノートルダム学院小学校、ノートルダム女学院中学高等学校、
そして、本学、京都ノートルダム女子大学の合同で行われています。


小学生・合唱隊による歌、中高生のオーケストラ演奏、大学生のハンドベル、
そして、キリスト降誕の劇に、美しいキャンドル・・・・・・。
卒業生の中には、
これを見ないとクリスマスを迎えた気がしないという方も多くいらっしゃるのでしょう。
たくさんの方々が本学を訪れ、
このクリスマスのひと時を一緒に過ごしました。



さて、その中で、本年も、本学科の学生たちが活躍していました。
「司会」と「朗読」を担当した3名から感想等を伺いました。




まず、「司会」を担当した2年次生の平郡萌さんです。



-フレッシュマンセミナーでも、平郡さんの司会は、明るく安心感がありましたが、
 今度は、会場の厳かな雰囲気に調和する「音(声)」の美しさも要求されます。
 今まであまり意識してきていないようなことまで改善していく必要があり、
 大変だったかと思います。

平郡
「はい、私は今回、司会を担当させて頂いたのですが、
滑舌良く話すと同時に
荘厳な雰囲気になるように滑らかに話さなければいけないというところに苦労しました。

しかし、平野先生が毎日のように練習を見てくださり、
私自身にとっても良い経験になりました。
本番は緊張しましたが、
これからも屈することなく色んなことにチャレンジしていきたいと思います。」

 練習を通して、確実に美しい話し方になっていくのを実感していました。
 この意識の変化によって、
 普段の話し方もより美しくなっていくのではないかと思っています。



-続いて、「朗読」を担当した2年次生の田中ひかるさんです。

 この朗読は、言いにくいことばの連続ですが、
 ゆっくりと意味がよく伝わる朗読でした。

 会場中の人たちは、田中さんの朗読で、
 意味をかみしめながら聞くことができたことでしょう。

 田中さん、担当してみていかがでしたか?



田中
「最初朗読を頼まれた時は私なんかで良いのかなと感じました。
しかし、任されたからには、しっかりやり遂げたいと思い
毎日口を動かす練習をしました。

私は、なかなか関西弁のイントネーションが抜けなく
発音に苦戦しました。
音として覚えることで直すことが出来ました。

緊張すると早口になってしまうので、
台本に大きな文字で「ゆっくり」とかいて、
ゆっくり話すことを心がけました。

突然だった、共同祈願も
噛むことなく言えて本当に良かったです。
貴重な経験をさせてもらえたなと感じています。
 
人前で話すことに少し自信を持つことが出来たので、
就活などでも活かせれば良いなと思います。」



-はい、安心してすっと内容に入っていける朗読でした。
 そして、急遽、共同祈願も担当することになったのですが、
 すぐに人前で堂々と話せるだけの、
 度胸と技能を身に付けたのではないかと嬉しく思っていました。




 そして、最後に、同じく「朗読」を担当した
 3年次生の西山加寿恵さんです。

 西山さんは、表現力豊かな朗読でした。
 登場人物を意識して朗読していたのでしょうか。



 
西山
「私が担当したのは受胎告知の場面で、
天使とマリアが登場するのですが、
その声の違いを表現するのが難しかったです。

天使の言葉は優しくかつ力強く、
マリアの言葉は優しくあたたかく、と意識していても、はじめはなかなか上手に読めませんでした。

特に天使の言葉は、力を入れすぎて怖くなってしまったり、
逆に優しく読みすぎて言葉が弱くなってしまったりと思うようには読めなかったです。

しかし、練習するうちに徐々に感じが掴め、
本番では落ち着いて読むことができたと思います。

完璧とはいきませんでしたが、声の違いも表現できたかなと思っています。」




 おっしゃる通り、誰のことばなのか、
 また、その人の性格なども伝わってくるような朗読でした。

 西山さんの朗読によって、
 厳かでやさしく温かい会場の雰囲気が
 より一層作り出されていたように思います。

 皆さま、大変お疲れさまでした。
 本年もすてきなクリスマスに感謝いたします。


写真:長沼光彦
文: 平野美保  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)話しことば教育学生の活動報告カトリック教育

2016年12月22日

ノートルダムクリスマス2016を開催しました


12月19日月曜日、
ノートルダムクリスマス2016を、
本学ユニソン会館にて開催しました。



ノートルダムクリスマスは、
学校法人 ノートルダム女学院に属する、
京都ノートルダム女子大学、
ノートルダム女学院中学高等学校、
ノートルダム学院小学校、
の3校が共同して行う、
クリスマスを祝う行事です。

(一般の皆様のご来場も受け付けておりました。)



学院では、今回の催しもの全体を、
ページェント(野外劇、催しの意味)と、
呼んでいます。

キリストの降誕を表した聖劇、
オーケストラや合唱による音楽、
聖書朗読をはじめとした祈り、
の三つの要素からなります。


中学高等学校のオーケストラの演奏から、
ページェントは開幕します。




キリスト降誕の物語が紹介され、
つづいて、小学校の生徒による聖歌合唱、
聖書朗読がおこなれます。


そして、一場修神父のお話ののち、
聖劇がはじまります。



また、物語の進行にしたがい、
本学ハンドベル部の演奏や、
中学高等学校の合唱団の歌が、
挿入されます。
(合唱団の指揮は、本学合唱団の学生が、
務めました。)







聖劇では、マリアに天使より、
受胎告知がなされます。



その後、降誕したキリストの元へ、
ベツレヘムの星に導かれた、
東方の三博士が訪れます。




聖劇の最後には、
生徒たちにより、
キリストの元から、
会場へろうそくの光が届けられます。



キリストがもたらした希望の光が、
会場の人たちのろうそくにともされます。



共同祈願を捧げ、
「きたれ友よ」「もろびとこぞりて」を合唱、
オーケストラの演奏で締めくくりました。


日々のあわただしさから、
ひととき離れ、
落ち着いた気持ちになることができました。




ここ数年、人間文化学科の学生は、
合唱団の指揮や、
聖書朗読などで、
ページェントに参加しています。

このお話はまた後ほど紹介します。

報告:長沼光彦

  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)学生の活動報告カトリック教育

2016年12月19日

待降節(たいこうせつ)

クリスマスイルミネーションの点灯式で、
理事長よりお話があった、
待降節を紹介しましょう。



待降節は、カトリックで、
クリスマス(降誕祭)の、
4週間前の日曜日(安息日)から行う、
準備の期間です。

クリスマスというと、
サンタさんが来る、
楽しい祭り、
というイメージですが、
カトリックにとっては、
救い主キリストが、
この世に降り立った日です。

日曜日に始まるのは、
カトリックにとって日曜日は、
仕事を休み、
礼拝を行う安息日だからです。



4週間は、かつて旧約聖書の時代が、
4千年と考えられたことをふまえ、
救い主が現れるのを待ち望む、
気持ちをふまえて準備するのです。



修道会によって、
行う儀式は違う場合もあるようですが、
ノートルダム修道女会では、
4つのキャンドルを用意し、
日曜日を迎える毎に、
ひとつずつ、灯す明かりを増やしていきます。




人生においては、
自分の力で切り拓いていくことが、
必要でしょう。


一方で、待つということも、
必要かと思います。

自分の力を超えたもの、
自分がまだ及ばないもの、
信ずるに足るもの。

自分の力の他に、
これを認め、
じっくりと待つ、というところに、
敬虔な態度が培われ、
自分の心も広がり、
また救われるのではないか、
と思います。



カトリックの信者は、
キリストという、人間の救い主を信じ、
信じることで、自分の行いを振り返ります。

自分の至らないところを自覚し、
キリストの御心にしたがうよう、
自分の態度を改めます。

そういう敬虔な態度を、
人は持っても良いのではないか、
と思います。




報告:長沼光彦  
タグ :待降節


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 22:10Comments(0)カトリック教育

2016年12月10日

【急告】 2016年度 人間文化学科クリスマスコンサート開催のお知らせ



ご連絡がおそくなりましたが、今年も人間文化学科主催 クリスマスコンサートを開催します。







今年のプログラムは、以下の通りです。







去年よりも、出場者・曲目ともに少なくなりましたが、1年次生でバイオリンを弾く人が2名、ピアノを弾く人が1名、新たに参加します。

さて、どんな腕前を見せてくれるか、楽しみです。





プログラム後半は、おなじみの平石こづ恵(心理学部卒業生)、梶谷琴恵(人間文化学科卒業生)の両先輩が駆けつけてくれ、フルートとピアノの名演を聴かせてくださいます。

美しい音楽をたっぷり味わって、みんなで楽しくクリスマスを祝祭しましょう。





司会進行は、例により、話し言葉・コミュニケーション論を学ぶ平野ゼミの諸君が担当してくれます。

また、今年は、演劇活動をしている4年次生・横路久未さんが、ダンスパフォーマンスを披露する予定です。

いつもと違った雰囲気になりそうな、今年のクリスマスコンサートに、みなさまぜひご来場ください。


(報告者:堀勝博)



  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)学生の活動報告カトリック教育

2016年11月25日

クリスマスイルミネーション点灯式


本日、11月25日金曜日、17時より、
クリスマスイルミネーション点灯式を、
行いました。



いずこでも、そろそろ、
クリスマスの飾りが見られますが、
カトリック校の本学では、
少し意味合いが違います。



クリスマスまでの、約4週間を、
イエス・キリストの降誕を待つ期間として、
待降節(たいこうせつ)〔アドベント (Advent)〕
といいます。


今年は、待降節第一主日を、
11月27日の日曜日として、
儀式が始まります。

日曜日は、学生がいないので、
少し早めに、
本日イルミネーションの点灯を行いました。

待降節については、
理事長が点灯前に、
お話しました。



イルミネーションは、
校舎ユージニア館のグラスタワー。



下鴨本通沿いの、
ヒマラヤ杉にしつらえた、
大きなクリスマスツリー。



そして、ノートルダム小学校側の、
交差点に面したモニュメント。
(小学校と大学で、一緒に、
イルミネーションをしています。)



3カ所で点灯されました。



イルミネーションが点灯されると、
皆で賛美歌、
「もろびとこぞりて」「しずけき」
を合唱しました。



点灯の瞬間、
参加した学生から、
わあ、と声があがりました。


そして、式のあとは、
記念撮影です。

学生が喜んでくれると、
何よりです。


イルミネーションは、
クリスマスまで行います。
よろしければ、お立ち寄りください。




報告:長沼光彦
  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 23:30Comments(0)新館・校舎紹介カトリック教育

2016年11月15日

大学で得るもの 


昨日の物故者ミサでうかがった、
一場修神父の御言葉を、
もうひとつ紹介しましょう。



大学では、目先の利益に囚われずに、
自分の価値を高めることを学ぶと良い、
ということを、おっしゃいました。


これも、昨日の話とつながっており、
目先の利益に囚われると、
本当に大切なものを見失う、
ということだと思います。



私たちは、ついつい、
結果が出やすいこと、
短期的に得しやすいことに、
目が向きがちです。

昨日の話で言えば、
お金儲けですね。



では、何に目を向けるべきなのでしょうか。
聖書の言葉で言えば、
「神の前に豊か」になることです。

神の目にかなうような、
人間として豊かな生き方に、
目を向けるということですね。


大学という場所は、
当面の利益の追究を離れて、
大事なことを、じっくりと考えられるところです。

もちろん、卒業すれば、
働くのは当然ですが、
人間として豊かなものを持った社会人と、
目先のことにばかり気をとられて育ってきた社会人では、
どちらが、世の中に必要な人間になれるでしょうか。



カトリックの大学は、
「神の前に豊か」という価値を重んじて、
人として豊かになることを目指しています。

(昨日は、スーパームーンでしたね。)

報告:長沼光彦
  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 21:37Comments(0)カトリック教育

2016年11月14日

人を想うこと 物故者ミサ

本日、11月14日、
本学にて物故者ミサを行いました。



物故者ミサは、本学教職員や卒業生をはじめ、
京都ノートルダム女子大学に関わり、
帰天された方々を想う式典です。


本日いらしていただいた、
京都司教区、一場修神父は、
帰天された方々を想うことで、
人と人のつながりを顧みて、
将来、社会に貢献できる人間となることを、
目指しましょう、とおっしゃいました。


この御言葉を受けて、
人とのつながりを重んじることの意味を、
少し考えてみたいと思います。



聖書が、
旅人をもてなすこと
(ヘブライ人への手紙 第13章 1-2)
「善きサマリア人」
(ルカによる福音書 第10章 25-37)
などで語るように、
他者への思いやりを重んじていることは、
よく知られています。

なぜ、人を思うことが大切なのでしょうか。
人間は、人を思うことを忘れると、
おそらく、貪欲に囚われるからです。



愚かな金持ちのたとえ話
(ルカによる福音福音書 第12章 12―21)では、
自分のためにだけお金をためようとして、
周囲を顧みない、金持ちの話が語られます。

人間は、自分だけが金持ちになれば、
幸せになれると思ってしまいます。

しかし、お金が儲かるのは、
人が自分のものを買ってくれるからでしょう。
自分のものを信頼してくれるからでもありましょう。

また、お金を遣うときも、
誰かのものを買うのでしょう。
そこにも信頼が必要です。

そういうことを忘れると、
自分だけが金を持てば良いと思います。

ついには、人を騙してでも、
人を陥れてでも、
お金を持ちたいという、
貪欲に囚われます。



そういう人は、食欲や権力欲を、
満たすことはできるかもしれません。
(そういう欲望も、七つの大罪と言われる、
貪欲のうちに入ります。)

しかし、本来ほしいものは、
手に入らないのです。

キリストは厳しく、
「自分のために富を積んでも、
神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
と述べました。



もちろん、私は、
信仰者のように、
説教する資格はありません。

とはいえ、人のことを想うと、
自ずと、自分の貪欲がやわらぐことは、
実感します。

逆に、人とのつながりを忘れると、
貪欲にも、傲慢にも、憤怒にも、
囚われるように思います。

聖書の言葉は、
誰にも、通じるものだと思います。


報告:長沼光彦




  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 19:14Comments(0)カトリック教育

2016年05月30日

貪欲に気をつける

先日、学生から10円借りた話をしました。

一方、ニュースを見ていると、
世の中には、
自分のものは人に渡さない、
人のものでも、できるならほしい、
という方もいるようです。

(『ドラえもん』の登場人物ジャイアンが、
そんなことを言ってましたね。)




聖書、ルカによる福音12:15に、
キリストの次の言葉があります。

「どんな貪欲にも細心の注意を払いなさい。
有り余るほどの者を持っているからといって、
人の命はその財産によってどうすることもできないからである。」



ここだけ読んでも、
なかなか意味がわからないかと思います。

この場面で、
キリストは群衆の一人から、
遺産を分けてくれるように、
兄にお願いしてほしい、
と頼まれています。

それに対し、
「だれがわたしを、あなたちの裁判官や調停人に任命したのか」
と問い返して、
上の言葉を語っています。

調停は私の仕事ではないが、
代わりに私の言葉を語ろう、
ということのようです。



また、つづけて、
ある金持ちが豊作に恵まれた際の、
エピソードを紹介しています。

金持ちは、
新しい倉をを立てて、
これから何年も生きていくだけの蓄えができた、
食べて飲んで楽しもう、と考えます。

しかし神は、金持ちに、
今夜お前は死ななければならない、
お前が用意した物は、
いったいだれのものになるのか、
と告げます。

このエピソードをふまえ、キリストは、
「自分のために富を積んでも、
神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と、
述べます。



つまり、欲に囚われて、
本当に大切にすべきもの、本質を、
見失っていることを、
警告しているわけです。

私が思うに、
この場合、財産を分けてもらおうとする弟も、
分けようとしない兄も、ともに、
警告されているのでしょう。


続けて、キリストは語っています。

「だから、言っておくが、
何を食べようかと命のことで、
何を着ようかと体のことで思い悩んではならない。
命は食べ物よりも大切であり、
体は衣服より大切なのだ。」




貪欲は、本当に大切なものを、
見失わせてしまうわけですね。

もちろん、私も、
食べ物や衣服のことを見ていることが多いので、
気をつけなければいけませんね。



一方で、ちょっと手を貸そう、
ちょっとしたことで助けになろう、
ちょっと気遣いをしよう、と、
自然と一歩踏み出せる人もいます。

貪欲とは異なるよいものも、
人は持っているのだろうと思います。




報告:長沼光彦

  
タグ :手助け貪欲


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)カトリック教育

2016年04月17日

旅人をもてなすこと

聖書を読んでいると、
旅人をもてなすこと、
がたびたび取り上げられます。



互いに兄弟としていつも愛し合いなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。
そうすることで、ある人たちは、
気づかずに天使たちをもてなしました。
(ヘブライ人への手紙 第13章 1-2)



キリスト教が愛を重んじる、
といわれるのは、
このような言葉からきています。

一方で、この言葉は、
人を思いやることが難しい、
とも言っているように思います。



旅人のように、
よそから来た人を、
大切にすることは、
なかなかできない。

だからこそ、
そういう気持ちを持とう。

そうすれば、
神の使いをもてなすような、
貴重な体験をすることができる。

自分の身近ではない人に対する、
思いやりの大切なことを、
忠告しているのだと思います。



ただし、人は、身近な人、
兄弟や友人に対しては、
自然と思いやるような気持ちは、
持っています。

その気持ちを、旅人、他者にまで、
広げることが大切なのでしょう。

兄弟として愛しなさい、とは、
そのような意味かと思います。



どのようなつらい出来事が起きても、
テレビを通じて見ているだけでは、
なかなか実感できないかもしれません。

しかし、そこに身近な人がいると思えば、
その出来事に対する気持ちの持ち方も、
変わってくるでしょう。

旅人へのもてなしとは、
そのような、他者への気持ちの持ち方を、
言っているのではないかと思います。


報告:長沼光彦

  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)カトリック教育

2016年04月05日

入学式 感謝のミサのことば

入学式では、マタイによる福音(7:7~12)が、
朗読されました。
担当したのは、人間文化学科、鎌田先生です。




そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、
石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして、あなたがたの天の父は、
求める物に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。

これこそ律法と預言者である。




これをふまえ、一場修神父は、話されました。

人の立場をわきまえ、共に考え、
より大きなもの(神の価値観)を、
追求するのが、カトリックの精神だということです。


求めるものを与えるのが神なのですが、
人間という立場で考えると、
相手に求めることを、
相手にもしたら良い、というのです。

なかなか難しいことですが、
人に与えようという態度からスタートすることで、
はじめて、本当の共感に至ることができるのでしょう。




また、一場神父は、さらに話を進めます。

良いこと求めて進んでも、
なかなか、うまくいかないことが多いかもしれない。

しかし、そのようなつらい経験の中に、
大きな答がある、というのです。

それは、自分がつらい経験をすることで、
つらい経験をした人の気持ちがわかるからです。

それもまた共感だということです。



大学入学を前にして、
何を大切にして、
一歩を踏み出しますか、
という一場神父の問いだと思います。

新入生の皆さんも、
これを機会に、
人との関わりについて、
考えてみていただけると良いでしょう。

聖書の言葉は、
人に生き方を問いかけます。




報告:長沼光彦


  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)カトリック教育

2016年03月23日

卒業式 聖体賛美と祝福式のことば

今回の卒業式の聖体賛美と祝福式では、
マタイによる福音、5章1~11節を、
朗読しました。
担当は、本学科の卒業生です。



「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。

義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。」



ここに引用したのは、詞章の一部です。


心の貧しい人が、幸いだというのは、
なかなか理解しにくいところです。

ただ、後を読むとわかるとおり、
求める人は、神によって満たされるのだ、
ということを言っていることがわかります。



神父様のお話では、
神の慈しみに会うことで、
人は、神が慈しみを大切にされていることを、
実感できる、というのです。


ここで、私なりに考えてみます。
普段、何気なく暮らしている私たちは、
大切なことに気づきません。

しかし、不幸な状況に陥ったときに、
慈しみを受けると、あらためて、
そのありがたみがわかります。

貧しい、求めている状況にならないと、
そのありがたみ、を本当に理解できないのですね。


つまり、神は、私たちが忘れているときに、
本当のこと、本当の価値を、
知らしめてくれる存在、
ということになると思います。

凡庸な人、私のような人間は、
進んで苦しいこと、危ういことに、
進んで行こうとは思いません。

しかし、生きていると、
否応もなく、苦しい目に遭うことあります。

そのときに、心の中に、求める気持ちがあれば、
真実を知らしめる存在に気づくことよって、
求めるものが、満たされる、
ということでしょう。


もちろん、信仰は自由ですから、
真実を知らしめる存在が、
神でなくとも良いでしょう。

ただ、私たちは、
そういう存在を持ってますか、
と問われているわけです。


聖書の中には、
私たちの生き方に結びつく言葉が、
あるようです。

報告:長沼光彦
  
タグ :卒業式


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 17:00Comments(0)カトリック教育

2016年03月13日

卒業式が行われました

3月12日土曜日、
本学の卒業式が行われました。


天候に恵まれ、
気持ちよく式に望むことができました。



来賓や保護者の方たちがいらっしゃる会場ですが、
卒業生たちは、まだ席についていません。


先日お話したとおり
卒業生は、パイプオルガンの演奏に合わせて
整然と行進して、
会場に入ってきます。


(演奏は、オルガン奏者である、
本学科の久野将健准教授です。)


練習の成果もあって、
晴れの舞台に、
堂々と向かいます。



卒業証書授与では、
まず学部長が全員の名前を読み上げ、
返事をしながら、卒業生が起立します。


卒業証書は、
学長より一人一人手渡しされます。
これも本学ならではでしょう。


それぞれが、卒業の成果を、
実感できたことでしょう。



学長、理事長から祝辞を述べると共に、
来賓の方々から、お祝いの言葉をいただきました。



次に、卒業生代表が謝辞を述べます。
大学院の修了式も同時に行われていますので、
修了生の代表も謝辞を述べます。



そして、卒業式後に聖体賛美と祝福式が執り行われます。
これも本学ならではでしょう。


聖書朗読は、
人間文化学科の卒業生代表が、
大役を承りました。


聖歌合唱では、
本学合唱団がリードします。


神の祝福を受けて、
卒業生の皆さんは、
晴れがましい気持ちで、
新しい道へと進んでいくことになります。



最後に、卒業生は、再び列をつくり、
オルガン演奏に合わせて、
堂々と退場していきます。


会場の皆さんは、拍手で送ります。
卒業生は、歩みながら、
教員と挨拶を交わしていきます。



ご卒業おめでとうございます。


報告:長沼光彦



  
タグ :卒業式


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 18:23Comments(0)学生の活動報告カトリック教育

2015年12月31日

年の瀬にキリストを思う

いよいよ2015年が過ぎ、
新年を迎えようとしています。


年の瀬に、ニュースを見ていましたら、
ノートルダムクリスマスでの、
一場修神父のお話を思い起こしました。


神父のお話は、キリストが人間の苦しみを負ったように、
わたしたちも、人の苦しみを思いましょう、
という話でした。

キリスト教では、キリストは、
人類の代わりに、その身をもって苦しみを受け、
人の魂を罪より救った、と考えます。

私たちはキリストに感謝すると共に、
同胞の苦しみに、目を向ける機会を持ってはどうでしょうか。
私は、神父のお話を、そのような積極的提案として、
聞きました。

とはいえ、人の苦痛を、自分のものとして、
思うことはむずかしいことです。
日々の自分の苦しさで、手一杯かもしれません。

ただ、同じ苦しみを持った体を持つ人として、
周囲の人を見る想像を持つと、
少しだけ、配慮や遠慮が生まれてくるように思います。

それだけでも、ずいぶん、
居心地のよい雰囲気になるでしょう。


年末年始と楽しいことをみんなで共有した方が、
良いと思います。
おめでたい方がいいですよね。

その一方で、
それぞれ苦を抱えているのではないかと、
頭の片隅においてみると、
いくぶんかでも、周囲にある、
苦や苛立ちをやわらげることができるのではないかとも思います。



皆さんは、2015年どんな年でしたか。
あらためて、よい年をお迎えください。


報告:長沼光彦
  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 12:00Comments(0)カトリック教育

2015年12月20日

ノートルダムクリスマスを開催しました

12月16日水曜日、ノートルダムクリスマスを開催しました。
学院の小学校、中高、大学、三校が合同で行う行事です。


学院では、今回の催しものを、
ページェント(野外劇、催しの意味)と、
呼んでいます。


キリストの降誕劇を中心に、
音楽や朗読、講話で、
構成されているからです。

オープニングは、中学、高校の、
女学院オーケストラの演奏からはじまります。


つづいて、聖歌「すべての人の救いを」。
こちらは、小学校父母の会コーラスサークル、
女学院コーラスクラブ、大学の女性合唱団、
からなる、合唱隊が歌います。


聖書の朗読の後、一場修神父のお話があり、
その後に、降誕劇が始まります。


天使がマリアに受胎告知をします。


そして、ベツレヘムの星に導かれた、
東方の三博士が、キリストの生まれた厩を訪れます。


クライマックスでは、キリストの元より、
ろうそくの灯された光が、
会場の人達に届けられます。


そして、キリストから受けた光を、
手にしながら、
共同祈願を捧げます。




「きたれ友よ」「もろびとこぞりて」を、
会場で合唱し、
最後に、オーケストラの演奏で締めくくられました。


厳かな趣の中、年の瀬を前に、
気持ちを新たにすることができました。
自分や周りの人の中に、人間の良い面、
光りを見出そう。
そんなメッセージを、降誕劇から受け取りました。


今回、人間文化の学生も、
降誕劇や、合唱団とその指揮者、
また、司会進行などで関わりました。

そのお話は、また別の機会にいたします。

報告:長沼光彦



  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 23:23Comments(0)学生の活動報告カトリック教育

2015年12月13日

クリスマスの装い

以前に、大学前の下鴨本通り側の、
イルミネーション点灯式を行ったことを、
お伝えしました。


学内のあちこちにも、
クリスマスの装いを見ることができます。
こちらは、ソフィア館エントラスのツリーです。


ユージニア館の正面から見える、
手作りのツリーは、大学祭から飾られています。


ユージニア館のエントランスにも、
ツリーが飾られています。
こちらは夕方に点灯しているところです。


またユージニア館エントランスには、
キリスト生誕の場面を表した像が飾られています。


キリスト生誕の場面は、
お御堂の横にも飾られています。
上に輝くのは、ベツレヘムの星です。
クリスマスツリーの星も、ベツレヘムの星ですね。


夜になると、正門脇の守衛室でも、
イルミネーションが光っています。


下鴨本通りのイルミネーションを見ながら、
北山通りに出ると、
ノートルダム小学校と大学共通の学院の門の上に、
天使と受胎告知のイルミネーションを見ることができます。


報告:長沼光彦

  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 22:20Comments(0)新館・校舎紹介カトリック教育

2015年11月27日

クリスマスイルミネーションの点灯式を行いました

 今日、本学でノートルダムクリスマス イルミネーションの点灯式を行いました。



引き締まった冬の空気の中に、ハンドベルの澄んだ音色が響きました。本学のハンドベル部による〈もみの木〉の演奏の後、Sr.和田理事長が、クリスマスの意味についてお話をされ、「クリスマスは人々の喜びと慰めのために、救い主がこの世に来られた日です。このノートルダムのイルミネーションが道行く人々の喜びと慰めになりますように」としめくくられました。

 イルミネーションが点灯されると、再びハンドベル部が〈クリスマスの鐘〉と〈鐘のキャロル〉を演奏し、私たちは耳を傾けました。



本学のイルミネーションはぱあっと目を引く賑やかさはないものの、優しく上品な雰囲気を漂わせています。近くにお越しの際には、ぜひご覧ください。




報告:岩崎れい  


Posted by 京都ノートルダム女子大学      人間文化学科  at 22:41Comments(0)学生の活動報告カトリック教育